2016年10月8日土曜日



愛知県の原告の甲斐昭です。
私は、甲状腺リンパ腫の切除手術のため声が出にくくなっております。
お聞き苦しい点があるかもわかりませんが、よろしくお願いします。
それからもう一つ、発言の間に当時のことを思い出しまして涙が出るかもわかりませんから、その点もひとつよろしくお願いします。
昭和20年8月6目、私は海軍潜水学校電機練習生として広島県の大野浦におりました。
当時、18歳でした。
朝8時15分過ぎ、ものすごい光と爆発音を広島から20キロも離れた大野浦でも感じることができました。
その後、直ちに上官から、広島が爆撃されたため救護に向かうという命令が下りました。
トラックで己斐駅まで、己斐駅からは市電沿いに歩いて、6目の午後には広島市中心部に入りました。
それから8月7日の夕刻まで2日間、私は広島市内でがれきなどの片付け、銀行の警備、そしてたくさんの死体の運搬などの救護につきました。
火事の地熱に耐え、活動した広島の中心部ではだれも生きている者がおりませんでした。
たくさんの黒焦げになった遺体、皮が垂れ下がった人、目が飛び出しているけが人、その情景は言葉にできません。
今でも、思い出すと涙が出ます。
8月7日の晩に大野浦に戻り、8月8日から8月14日までの間、大野浦国民学校で潜水学校の同期生たちと一緒に、広島からトラックで運ばれてきた原爆の負傷者の救護を行いました。
火傷やけがのため動けなくなった方々の包帯の交換、傷口からわいてきたウジの掃除、下のものの処理などを行いました。
また、広島から大野浦の港に流れ着いた多くの死体を引き上げ、田んぼで焼きました。
100体や200体ではきかない、大量の死体でした。 
このころから、私の体にも異変が生じました。
広島に入った6日の夜には下痢が始まりました。
広島に入ってからは、のどの渇きを癒すため、死体が浮く汚い川の水を飲むことはありましたが、食事は一切とっておりません。
水のようなものが出る下痢が1時間に2回から3回も襲ってきました。
夜遅くになってからは、下痢の中に血が混じっていることに気がつきました。
下痢は翌日からも続き、除隊してからも下痢が続きました。
大野浦に帰ってからは、歯ぐきからの出血、丸坊主になっている短い頭髪が抜け落ちました。
このような体調の変化は、私だけに起こったわけではありません。
国民学校ではトイレが設けられていましたから、下痢を催してトイレに行く度に同期生と頻繁に顔を合わせます。
そのうちに、みんなが下痢をしているということがわかりました。
救護活動に従事している50名ほどの同期生のうち、私と同様、広島に救援に赴いた25名も、広島に入ったことのない者にも下痢が発生していました。
近隣地域から救護に来ていた一般人の方にも下痢が発生していました。
私たち同期生は、集団で下痢に罹患している旨を上官に申告しました。
上官は、自分も下痢をしているのだと言われました。
それから、体のだるさが起こりました。
もちろん、当時は疲労のせいだと思っていましたし、命令がありましたから一生懸命働きました。
しかし、この疲れは除隊してからも続き、一生つきまとわれることになりました。
除隊して、郷里の福井に帰ってから、さまざまな病気にかかりました。
昭和24年からは頸部リンパ腫で13回にもわたる手術を受けました。
だるさ、発熱、耳鳴りなどの体調不良も続きました。
そのような中で、甲状腺の悪性リンパ腫にかかったのです。
私は、戦後60年以上、いつも体調不良に苦しめられてきました。
そのため、せっかく仕事についても長く働くことができないという侮しい思いを経験しております。
このようなことから家族にかけた迷惑は計り知れません。
私は潜水学校時代、風邪一つ引いたことがなく、腰回りは100センチ、体重も100キロありました。
柔道などをしており、体を鍛え上げ、厳しい訓練に耐え抜いてきて体力もありました。
その私が昭和20年8月6日、7日の2日間の広島の救援活動を境に、まともに働くこともできないような体になってしまったのです。
これが、原爆のせいでなくて何だったんでしょうか。
このように、私は広島に原爆が投下されたときには広島市内にいなかった、いわゆる入市被爆者です。
厚生労働省の方々は、裁判などを通して入市被爆者はほとんど放射線に被爆していない、被爆していてもごくわずかな量なので、体に大きな被害が発生するはずがないなどと言っておられます。
しかし、私や私と同じような入市被爆者に生じた体の変調がうそだったと言うのでしょうか。
厚生労働省の方は、下痢や衛生状態が悪かったから脱毛やストレスのせいだと述べておられますが、このような発言ほど私たちの気持ちを踏みにじる話はありません。
除隊後、帰郷した福井も空襲によって焼け野原となっていました。
衛生状態は悪く、被災者はさまざまなストレスを抱えていました。
しかし、福井では下痢や脱毛が広島や長崎のように発生したということはありません。
私は、自分の病気が原爆のためであるということ何とかして認めてほしいと思い続けておりました。
ところが、私が被爆をしたということを証言してくれる証人を2名そろえろと言われ、被爆者手帳ももらえませんでした。
厚生省には、海軍潜水学校の同期生を調べてほしいと何度も頼みましたが、厚生省は海軍潜水学校などはないと取り合ってくれませんでした。
私が2人の証人を得ることができたのは、偶然、手にした新聞記事がきっかけでした。
被爆者手帳をもらえたのは、被爆から実に50年もたった後のことでした。
手帳をもらってすぐに原爆症認定を申請しましたが、5年も待たされた上で却下になりました。
それで、私は集団訴訟の最初の原告として裁判を起こすことになりました。
この度、安倍前首相が原爆症認定申請の基準を見直そうとを指示され、厚生労働省で検討会が発足することになりました。
長年にわたり被爆者と認めらず、原爆症とも認められてこなかった私としては、検討会が発足する日を迎えたことは感無量であり、大いに期待しております。
先生方には、今後検討を進められるに当たって、被爆者に現に起こったことをしっかりとよく理解していただきたいと思います。
私のように、原爆が落ちたときに広島にいなかった入市被爆者でも、被爆の影響で大変な苦しみを受けてきたということを是非わかってください。
国は、入所被爆者にそんな被害が起こるはずがないなどと言っておられますが、集団訴訟の6つの判決で、いずれも国の主張が間違っていると認めています。
国が今まで言ってきたよりも、ずっと大きな影響が被爆者に起こっているのです。
ですから、被爆の影響と考えられる病気になった被爆者がすぐに原爆症と認められるように、認定制度を改めていただきたいと願っております。
私は、原爆を通じて、本当に国は冷たいという思いを何度もしてきました。
どうか被爆者が国を恨んだまま死んでいくようなことをさせないでください。