2017年10月22日日曜日
畑元司令官らA級戦犯の色紙
中国新聞(2010年4月24日)
戦犯10人から広島の被爆者へ色紙 巣鴨慰問後に贈られる
原爆投下から7年後の1952年、広島で被爆した女性9人が巣鴨プリズン(東京)を慰問した後、A級戦犯10人から寄せ書きの色紙を贈られ、うち1枚が笹森恵子さん(77)=米国在住=の広島市内の実家に残されていたことが24日、分かった。
笹森さんは戦犯について「組織の中で行動した人たちで、わたしたちと同じ戦争の犠牲者。恨むつもりはない。戦争さえなかったら、と思う。ただ戦争が起こらない方法をもっと考えてほしかった」と話している。
色紙は上に「容敬(ようけい)」、両脇に「巣鴨御来訪記念」「新本(にいもと)(笹森さんの旧姓)恵子様」と書かれ、下に「木戸幸一」「賀屋興宣」「荒木貞夫」など10人の氏名が並ぶ。
広島大の富永一登教授(中国文学)によると「容敬」は「態度をうやうやしくする」「身を慎む」という意味。
広島市の原爆資料館に保存されている、慰問の半年後に発行された記念誌によると、笹森さんらはケロイドなどの治療のため東京を訪れていた52年6月11日、巣鴨プリズンに行き約2時間面会。寄せ書きは後日、手紙と共に届いた。
A級戦犯との面会で、広島市出身の賀屋元蔵相は「皆さんに心からお許しを願います」と話し、陸軍第2総軍(広島市)の司令官だった畑俊六元大将も「当時最高指揮官として広島におりましたが、そのためにこんな迷惑を掛けてすみません」と語り掛けた。
被爆者側は「わたしたちは、そんなに謝っていただくためにうかがったのではないのです。今後、戦争の起こらないよう平和に向かって努めましょう」と答えた。
当時、巣鴨へは演劇、歌手、スポーツなど各界の関係者が頻繁に慰問に訪れていた。
笹森さんは55年、ケロイド治療のため訪米。帰国後、看護師になるため再び米国に渡り、現在はロサンゼルス近郊に在住。このほど一時帰国し、額に入っていた色紙を持ち帰った。
中国新聞夕刊(3面) 2010年4月24日
被爆女性戦犯慰問
「なぜ計画」疑問の声 演奏・花束で迎えられる
顔や手にケロイドが残る被爆者の女性たちが巣鴨プリズンを訪れたのは、サンフランシスコ条約発効(1952年4月)で、日本が独立を回復してから1カ月半後。国民の間には同情感もあり、戦犯の釈放を求める声が高まっていた時期だった。
戦犯側は慰問を歓迎したが、「どんな意図で計画されたのか」と疑問の声も出ていた。(1面関連)
慰問の半年後に発行された記念誌によると、面会は楠瀬常猪元広島県知事が提案。笹森恵子(しげこ)さんらは、楽団の演奏や花束、手作りの記念品で迎えられた。BC級戦犯も含め約40人が手記を寄せ「この日の感激を一生の思い出として、平和日本建設にまい進する」などの言葉が並ぶ。
一方、被爆の悲惨さを訴えるため、「原爆1号」と名乗ったことで知られ、慰問にも同行した吉川清氏は著書に「どこかで、戦争と国民とを和解させ、原爆と被爆者とを仲直りさせようという工作がひそかに行われているように感じた」と記した。
上京に協力した小説家芹沢光治良氏も、直後の月刊誌への寄稿で「乙女の純情をこんな風に利用していいものか、怖ろしい気がした」「治療に必要でない場所に引張りまわすのは、残酷で無神経」と指摘した。