2017年11月2日木曜日

ルーズベルト夫人、ABCCに「憤慨」 治療棟新設の経緯判明



2017/8/4(中国新聞)
【ロサンゼルス共同】


広島への原爆投下から約8年後の1953年6月、米国が広島に設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)を視察したエレノア・ルーズベルト元大統領夫人が、被爆者が研究対象にされるだけで治療されていないことを批判、それを受けてABCCに治療棟が新設された経緯が分かった。

 米作家ジェシカ・レンショーさん(73)が、父親でABCCの研究員だった人類学者アール・レイノルズ博士(故人)の証言として、3日までに明らかにした。「研究すれども治療せず」と批判されたABCCの治療棟設置に、元大統領夫人が大きな役割を果たしたことをうかがわせている。

 夫人の視察に同行したレイノルズ博士によると、被爆者が治療も受けられないまま研究対象にされている実態を目にした夫人は「非常に憤慨」し「被爆者はモルモットのように感じているのに、拒否するすべも知らない」と語った。夫人の批判を受けてABCC内で話し合いが持たれ、半年後に治療棟が設けられることになったという。

 ABCCを前身とし、被爆者の健康調査に日米共同で取り組む放射線影響研究所(放影研)によると、治療棟は53年12月~72年5月に設置、最大で13床だった。

 放影研に残る日本人医師や看護師の証言記録によると、日本の医師免許がなかった米国人医師は法的には治療ができなかったが、日本人医師と相談しながら治療方針を決めた。日本では手に入らなかった医薬品を使い、24時間体制で治療に当たることもあったという。







2017年11月1日水曜日

米、日本への核配備狙う 50年代、公文書に明記

 
2011年8月4日(共同通信)

米政府が、日本への原子力技術協力に乗り出した1950年代半ば、原子力の平和利用促進によって日本国民の反核感情を和らげた上で最終的には日本本土への核兵器配備にこぎ着ける政策を立案していたことが4日、米公文書から分かった。

 米公文書は、当面は核兵器配備に触れずに「平和利用」を強調することで、米核戦略に対する被爆国の「心理的な障壁」を打破できると指摘。米国の原子力協力は54年3月の第五福竜丸事件を機に本格化したが、米側に「日本への核配備」という隠れた思惑があった実態が浮かび上がった。

 日米史研究家の新原昭治氏が米国立公文書館で関連文書を入手した。

 フーバー国務長官代行は55年11月18日付のロバートソン国防副長官宛て極秘書簡で、米統合参謀本部が核兵器を日本に配備する必要があると判断した経緯を記載。

 「平和利用」への理解が深まれば「軍事的な原子力計画」への理解も進み、日本人の「心理的な障壁」を弱められるとの国防副長官の指摘を受け、米核政策への「好意的な理解」を日本の指導層に広めるため国務省と国防総省が「共同研究」を進めることに賛同した。

 またスミス国務長官特別補佐官は、56年12月3日付のグレイ国防次官補への極秘書簡で「日本での核兵器貯蔵に対する政治的障害を減らす方策」が、アリソン駐日大使とレムニッツアー極東軍司令官の間で議論される見通しを説明。この問題で対日交渉を急ぐのは「危険」とした上で、当面は日米間の原子力協力に専念することで「米国にとって最善の結果」が得られるとの見方を示した。

 他の公文書によると、米軍内では54年から日本への核配備を求める声が強まるが、国務省が第五福竜丸事件後の日本の対米感情悪化を踏まえ反対。米軍部は核分裂物質を含む核兵器の中核部分「核コンポーネント」の配備を目指すが、核分裂物質を含まない「非核コンポーネント」が54年末ごろに日本に搬入された。軍部は以降も日本への核配備を模索したが、最終的に実現しなかった。