2017年5月20日土曜日
「原子爆弾後障害症治療指針」の重要性
厚生省(当時)は、原爆医療法施行後1年余を経過した 昭和33年8月13日付で、各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通知
「原子爆弾後遺障害治療指針について」
及び
「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について」
を通達した。
注目すべきは、これら厚生労働省による通知に、「慢性原爆症」と密接に関係する記載が見られることである。
これらは被爆後の日米合同調査団に参加した医療関係者らが中心となる調査班の委員により起草され、後に原対協の地元医師らの意見も一部加わり増補改定(昭和30年)された。
実態を反映した臨床医学を基礎に置いて策定されたことに特に留意すべきである。
上記の厚労省衛生局長による治療指針通知は、原爆症調査研究協議会(原調協)が昭和29年2月に最初に定めた 「原子爆弾後障害症治療指針」 に基づくものであることがうかがわれ、このことは、
「被爆者に関する限り、如何なる疾患又は症候についても一応被爆との関連を考え、その経過及び予後について特別な配慮を以て当る 」
とあり、両者に同趣旨の記載があることからも分かる。
また、これらの通知はいずれも被爆距離を一応の目安をしながらも、2キロメー トルまでで切り捨てるようなことをせず、「実施要領」の通知には、
「被爆当時の状況、被爆後の行動等をできるだけ詳細に把握して、当時受けた放射能の多寡を推定するとともに、被爆後における急性症状の有無及び、その程度等から、間接的に当該疾病又は症状が原爆に基づくか否かを決定せざるを得ない場合が少なくない」
と記載され、厚生省通知と原調協の同治療指針で、ほぼ同様の記載がなされている。
この通知にみられる原爆放射線の影響についての知見は、原爆医療法(案)策定の際、被爆者の定義等、内容を定めるうえで行政判断の土台となった。
また、被爆者疾病の放射線起因性を推認する場合でも、一連の原爆症認定訴訟判決においても同指針ならびに医療法制定時の厚生省の認識の重要性を司法が度々指摘している。
現代でも、正鵠を得た判断指針として評価できるものである。
2017年5月15日月曜日
具体的な法案の策定過程(原爆医療法)
厚生省の,昭和31年12月12日付け第一次原案は,直接被爆者を,広島市及び長崎市のうちの一部区域で被爆した者に限定し, それ以外の定義については政令に委任するという内容であり,過度に救済範囲を狭めたものであった。 そのため,第一次原案は訂正され,直接被爆者の範囲は,広島市 及び長崎市の全域並びに両市に隣接する区域において被爆した者に まで拡大されるとともに,原爆投下後に爆心地付近に入った者も, 被爆者として定義された(もっとも,厚生省は,被爆者の定義について試行錯誤をしていたようであり,第7次案では,再び,入市被 爆者の定義を全面的に政令に委任するような文案が作成された 。)
その後,厚生省における検討結果を集大成したともいえる 「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律案(途中整理案) 」が策定された。この段階では,直接被爆者(1号)及び入市被爆者(2号) の定義は,実際に制定された原爆医療法の定めと同様の形となっていたが,3号については 「前2号に掲げる者のほか,これに準ずる状態であった者で,原子爆弾による放射能の影響を受けたお それがあるとして政令に定めるもの」という表現が用いられていた。
上記途中整理案について,厚生省内部において審議が行われたところ,その場では,原爆被爆者に限って国の責任において健康診断等を行う理由として,
①被爆者の医学上特異な傷害が休火山 のような状態で法案策定当時まで続いていること
②上記の傷害 が戦争によって惹起されたこと
が指摘された。さらに,1号の定 義には胎児被爆者が含まれていたにもかかわらず,2号及び3号の定義には胎児被爆者が含まれないことや,被爆後に胎児となった者が「被爆者」に含まれないことについて,健康管理を主目的の一つとするという観点からは疑問もあるという指摘がされた。
こうした審議経過からは,原爆医療法の主目的の一つが健康管理にある以上,医学的知見に拘泥せずに,放射能の影響を受けた おそれがあると考えられる者をできる限り広く被爆者として取り扱い,将来にわたって健康を管理するべきであるという考えがあったことがうかがわれる。
前記途中整理案に続いて策定された昭和32年2月7日付け法律案では,3号の文言は 「前2号に掲げる者のほか,これらに準ずる状態にあった者であって,原子爆弾の傷害作用の影響を受けたおそれがあると考えられる状態にあった者」というものに改められ,3号に関しては政令への委任を行わないものとされた。
また,上記法律案においては,2号及び3号所定の者が当該各号に 規定する事由に該当した当時その者の胎児であった者も 「被爆者」 に含まれることとなった。
3号被爆者に関して政令への委任を行わないものとされたことは,法所管庁である厚生省が,原子爆弾の放射線の影響を受けた おそれがあると考えられるような外部的事情について,被爆者ごとに個別具体的に判断することを念頭においていたことを意味する。
このような方針が採用されたのは,原爆医療法の主たる目的は,当時の医学では原爆放射線の影響が解明されていなかったことにかんがみ,原爆の影響を受けたおそれのある者について健康を管理し,いつ原爆症を発症するか分からないという被爆者の不安を和らげることであったため,不十分な当時の科学的知見に基づいて原爆の影響を受けたおそれがある者を政令において具体的に列挙するのではなく,抽象的な条項を設け,将来,新しい医学的知見をも踏まえた上で原子爆弾の影響を受けたおそれがあるか否かの個別具体的な判断を行うことを可能にする方が,原爆医療法の趣旨・目的に適合すると判断されたためであろうと思われる。
3号の文言は,内閣法制局における予備審査の過程を経て 「前記 1、2号に掲げる者のほか,原子爆弾が投下された際又はその後において,身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下に あった者」と改められた。
これは,熱線や爆風による被害者は基本的には1号,2号によ って網羅されると考えられたことによるものであろうと思われる。
なお 「受けたおそれがあると考えられる状態」という表現が「受けるような事情」という表現に変わったのは,前者が法文として 不適切な表現であると判断されたためにすぎず,上記の変更は, 何ら,3号の内容の実質的な変更(あるいは3号によって救済される範囲の狭小化)を意味しない。
以上において検討した法案の策定過程からは,
①原爆医療法によ って救済するべき被爆者として,典型的には1号の直接被爆者及び 2号の入市被爆者が想定されていたこと
②その他の者についても 被爆者の健康を管理し被爆者の不安を和らげるという観点からの救 済を広く行うべく,3号が規定され,しかも,原爆医療法の趣旨・ 目的をより達成しやすいように,3号の対象となる者の範囲について政令で具体的な規定を設けることがあえてされなかったこと
が分かる。
(オ) 原爆医療法案に関する国会での審議国会での審議においては,原爆医療法案の2条3号について,同号を設けたきっかけは,原爆投下時に爆心地から5km以上離れた海上で,輻射を受けたというような人や,爆心地から5km以上離れたところで死体の処理に当たった看護婦あるいは作業員らが,原子病を起 こしてきた例があるため,それらの者をも救済する必要があると考えられたことにあるという説明がされた。
この説明からは,3号が,1号や2号に含まれない被爆者を救う補 完的規定であること,3号が設けられたきっかけは,1号や2号の要件に当てはまらないが,その後「原子病」を起こした人がいることにあったことが分かる。
原爆医療法制定当時の放射線の人体影響に関する科学的知見等
a 都築正男(以下「都築」という )による報告
都築は,昭和29年2月に発表した論文において 「慢性原子爆弾症の人々のうちには,第一次放射能のほかに中性子の作用に基づく誘導放射能,特に体外誘導放射能の影響と,原子核分裂破片 の作用とを蒙っているものと考えなければならないものも少なくないと思うが,これらの第二次的ともいうべき放射能の作用はその強さは極めて微弱ではあるが,その生物学的作用は或る場合には無視することが出来ないと思う 」と述べた。また,都築は,原爆投下時に初期放射線の影響をまったく受けなかった者が,その後爆心地に入った場合に,急性症状や慢性原子爆弾症の症状を訴える例は少ないが,原爆投下時に初期放射線の影響を少しでも受 けた者の中には,その後爆心地に入り,残留放射線の影響によって急性症状を発症した者が多数おり,そうした者は,慢性原子爆 弾症になる可能性があるとも述べた。そして,都築は,上記の点を踏まえて,個々の被爆者が相当の放射線の影響を受けたか否か は,①初期放射線による傷害の程度,②急性放射線病の発現の有無,③残留放射線の影響の3点を基準として判断するべきであると結論付けた。
上記のような報告内容からは,原爆医療法が制定された段階 おいて,既に,初期放射線のみならず,残留放射線もまた,人体 に何らかの影響を与えるものと考えられていたことがうかがわれる。
都築は 「原子爆弾の傷害とは直接関連性のないもののあるかも知れないが,明らかに多数の人々を殺傷した傷害威力による影響であるから,幸いにして死を免れ得た人々にもある程度の傷害を 与えたことは疑う余地はあるまい。その意味において後障害症の 問題はますます重大なこととなるべきものといわなければなるまい 」と述べた。
これは,原爆放射能の影響による傷害,すなわち 原爆症の範囲が,その後の科学的知見の進展によって広がること を示唆したものであったといえる。
都築は 「庇護的の手段によって平穏な生活を続けるように」するためには 「狭義の医的 , 庇護だけでなく,社会保障的の養護もまた甚だ肝要である」として,国費による医療給付の必要性のみな らず,生活援助の必要性にも言及した。
また,都築は 「原子爆弾 , 傷害の後障害症として現在最も注目せられている血液疾患,たと えば白血病や再生不能性貧血等,或はリンパ組織系等の腫瘍性増 殖状態等のことが慢性原子爆弾症を土台として発生するか否かの問題は,医学的になお未解明であるが,これらの後障害症は何れ も慢性原子爆弾症の発生と同一条件におかれた人々の間から見出されている」から「臨床医学の立場からするならば慢性原子爆弾 症の人々には常に注意を与え,その生活に破綻を来して悪性後障害症発生の誘因を作らないように努めさせるべきである」として 健康診断の必要性を訴えた。
こうした考え方は 「いかなる疾患又は症候についても一応被曝との関係を考え,その経過及び予防について特別の考慮が払われなければならない」という考え方をうたった,厚生省による「原子爆弾後障害症治療指針」にも反映されたものである。
上記においてみたように,原爆医療法制定当時,既に初期放射線 や残留放射線が人体に影響を及ぼすであろうと考えられていたことは明らかである。ただ,当時の科学的知見では,放射線の人体に対する影響は未だ十分に解明されていなかったため,科学者によって も,後障害の予防の観点から,健康診断や生活保護の必要性が訴えられていたものである。
2017年5月10日水曜日
「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について」厚生省公衆衛生局長通達
原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について
(昭和三三年八月一三日)
(衛発第七二七号)
(各都道府県知事、広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通達)
標記の要領を別紙のとおり定めたので、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律による健康診断については、今後この要領を参考として実施されたい。
原子爆弾被爆者健康診断実施要領
この要領は、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律に基き、被爆者の健康診断を行うに当つて考慮すべき事項を定めたものである。
一 総論
昭和二○年広島及び長崎の両市に投下された原子爆弾は、もとより、世界最初の例であり、従つて核爆発の結果生じた放射能の人体に及ぼす影響に関しても基礎的研究に乏しく明らかでない点がきわめて多い。
しかしながら被爆者のうちには、原子爆弾による熱線又は爆風により熱傷又は外傷を受けた者及び放射能の影響により急性又は悪急性の造血機能障害等を出現した者の外に、被爆後一○年以上を経過した今日、いまだに原子爆弾後障害症というべき症状を呈する者がある状態である。
特に、この種疾病には被爆時の影響が慢性化して引き続き身体に異常を認めるものと、一見良好な健康状態にあるかにみえながら、被爆による影響が潜在し、突然造血機能障害等の疾病を出現するものとがあり、被爆者の一部には絶えず疾病発生の不安におびえるものもみられる。
従つて、被爆者について適正な健康診断を行うことによりその不安を一掃する一方、障害を有するものについてはすみやかに適当な治療を行い、その健康回復につとめることがきわめて必要であることは論をまたない。
しかしながら、いうまでもなく放射能による障害の有無を決定することは、はなはだ困難であるため、ただ単に医学的検査の結果のみならず被爆距離、被爆当時の状況、被爆後の行動等をできるだけ精細には握して、当時受けた放射能の多寡を推定するとともに、被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接的に当該疾病又は症状が原子爆弾に基くか否かを決定せざるを得ない場合が少くない。
従つて、健康診断に際してはこの基準を参考として影響の有無を多面的に検討し、慎重に診断を下すことが望ましい。
二 各論
原子爆弾後障害症のうち、熱傷瘢痕異常等外科領域における傷害又は疾病に関しては、健康診断にあたり、これが原子爆弾の熱線又は爆風に起因するものであるか否かを判断することは比較的容易であり、また、かかる傷害又は疾病が放射能の影響のため治癒能力を阻害され、医療を要するか否かについても、一般の傷害又は疾病に照し合せて考慮すれば足りるものであるので、ここでは、主として原子爆弾の放射能による内科的疾病に関して記載することとする。
被爆者の健康診断を行うに当つて特に考慮すべき点は、次のとおりである。
(一) 被爆者の受けたと思われる放射能の量
原子爆弾の放射能に基く疾病である限り、被爆者の個々の発症素因、生活条件等は別として、被爆者の受けた放射能の量が問題になることはいうまでもない。
しかし、現在において被爆当時にうけた放射能の量をは握することはもとより困難であるが、おおむね次の事項は当時受けた放射能の量の多寡を推定するうえにきわめて参考となりうる。
1 被爆距離
被爆した場所の爆心地からの距離が二キロメートル以内のときは高度の、二キロメートルから四キロメートルのときは中等度の、四キロメートル以上のときは軽度の放射能を受けたと考えてさしつかえない。
2 被爆場所の状況
原子爆弾後障害症に関し、問題になる放射能は、主としてγ線及び中性子線であるので、被爆当時におけるしやへい物の関係はかなり重大な問題である。このうち特に問題となるのは、開放被爆としやへい被爆の別、後者の場合には、しやへい物等の構造並びにしやへい状況等に関し、十分詳細に調査する必要がある。
3 被爆後の行動
原子爆弾後障害症に影響したと思われる放射能の作用は、主として対外照射であるが、これ以外に、じんあい、食品、飲料水等を通じて放射性物質が体内に入つた場合のいわゆる体内照射が問題となり得る。従つて、被爆後も比較的爆心地の近くにとどまつていたか、直ちに他に移動したか等、被爆後の行動及びその期間が照射量を推定するうえに参考となる場合が多い。
(二) 被爆後における健康状況
前述の被爆者の受けたと思われる放射能の量に加えて、被爆後数日ないし、数週に現われた被爆者の健康状態の異常が、被爆者の身体に対する放射能の影響の程度を想像させる場合が多い。すなわち、この期間における健康状態の異状のうちで脱毛、発熱、口内出血、下痢等の諸症状は原子爆弾による障害の急性症状を意味する場合が多く、特にこのような症状の顕著であつた例では、当時受けた放射能の量が比較的多く、従つて原子爆弾後障害症が割合容易に発現しうると考えることができる。
(三) 臨床医学的探索
臨床医学的探索にあたつては、原子爆弾後障害症として最も発現率の高い造血機能障害の検査の主体をおくほか、肝機能検査、内分泌機能検査等をもあわせて行う必要のある場合がある。
また、異常については、この異常が放射能以外の原因に基くものであるか否かについては、詳細に検討を加えたうえ、一応考えられる他の原因を除外して後においてはじめて放射能に基くものと認めるべきであり、従つて、この鑑別診断を行うにあたつては、尿検査、糞便検査、X線検査その他必要ある検査はもちろん十分に行わなければならない。
(四) 経過の観察
原子爆弾後障害症の一部、例えば、軽度の貧血や白血球減少症のようなものでは、所見が一進一退する場合が往々にしてみられるので、被爆者の健康について十分に経過を観察する必要がある。
小西訴訟・京都地裁判決要旨
昭和63年(ワ)第2248号損害賠償請求事件
平成2年(行ウ)第17号原子爆弾被爆者認定却下処分取消請求事件
判 決
一 主文
- 被告厚生大臣が原告に対し昭和60年11月28日付けでした原子爆弾被爆者医療認定申請却下処分を取り消す。
- 被告国は原告に対し472万800円及びこれに対する昭和63年10月13日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
原告の被告厚生大臣に対する訴えは、同被告が昭和60年11月28日付けで原告に対してした原爆被爆者医療認定申請却下処分(本件処分)には原爆医療法八条一項の解釈適用の誤りの違法があるとして本件処分の取消しを求めたものであり、原告の被告国に対する訴えは、国家公務員である被告厚生大臣が故意又は過失により違法に本件処分を行い損害を与えたとして、被告国に対し医療特別手当相当額等の損害賠償を求めたものである。
三 主な争点
1 本件処分の違法性
(一) 原告の肝機能障害及び白血球減少症は本件処分の申請時において原爆医療法八条一項にいう「原子爆弾の傷害作用に起因する」ものであったか。
(1)「起因性」の立証責任の所在等
(2)原告の被爆と肝機能障害及び白血球減少症の発症の機序との関連
(二) 原告は本件処分の申請時において原爆医療法七条一項にいう「現に医療を要する状態」にあったか。
2 被告厚生大臣は故意又は過失により本件処分を行ったものか。
3 原告の損害額如何。
四 当裁判所の判断
1 原爆医療法八条一項の「起因性」の立証責任の所在等について
(一) 広島及び長崎における原爆の投下は空前のものであり、絶後のものでなければならない。原爆の投下により瞬時に多数の生命が奪われ、多数者に死亡にも比すべき障害をもたらし、その苦しみが今日なお継続している。原爆投下後10年余りが経過した昭和32年に原爆医療法が制定された。原爆医療法は、「原子爆弾の被爆による健康上の傷害がかつて例を見ない特異かつ深刻なものであることと並んで、かかる傷害が遡れば戦争という国の行為によってもたらされたものであり、しかも、被爆者が今なお生活上一般の戦争被害者よりも不安定な状態におかれている」という「特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかる一面を有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にある」ものであった。
(二) 国は、昭和32年4月25日に内閣において原爆医療法施行令を施行し、同年4月30日に厚生省において原爆医療法施行規則を施行し、厚生省公衆衛生局長において、昭和33年8月13日に、「原子爆弾後障害治療指針について」との通知(「治療指針」)及び「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について」との通知(「実施要領」)を都道府県各知事、広島市及び長崎市長に宛て発した。
(三) 厚生省公衆衛生局長は「実施要項」において「昭和20年広島及び長崎市に投下された原爆は、もとより、世界初めての例であり、従って核爆発の結果生じた放射能の人体に及ぼす影響に関しても基礎的研究に乏しく明らかでない点が極めて多い。しかしながら、被爆者のうちには、原爆により急性又は亜急性の造血機能障害等を出現したものの外に、被爆後10年以上を経過した今日、いまだに原爆後障害症というべき症状を呈するものがある状態である。特に、この種疾病には被爆時の影響が慢性化して引き続き身体に異常を認めるものと、一見良好な健康状態にあるかにみえながら、被爆による影響が潜在し、突然造血機能障害等の疾病を出現するものとがあり、被爆者の一部には絶えず疾病発生の不安におびえるものがみられる。従って、被爆者について適正な健康診断を行うことによりその不安を一掃する一方、障害を有するものについてはすみやかに適当な治療を行い、その健康回復につとめることがきわめて必要であることは論をまたない。しかしながら、いうまでもなく放射能による障害の有無を決定することは、はなはだ困難であるため、ただ単に医学的検査の結果のみならず、被爆距離、被爆当時の状況、被爆後の行動等をできるだけ精細には握して、当時受けた放射能の多寡を推定するとともに、被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接的に当該疾病又は原爆に基づくか否かを決定せざるを得ない場合が少なくない。」ことを明らかにした。
(四) 原爆の投下による被爆自体、被爆による被害等の特殊性(一回性)、国家補償法的配慮を根底とする原爆医療法の性格、立法当時における医学等の水準及びこれについての国(内閣・厚生省)の認識等にかんがみると、原爆医療法八条一項の「当該負傷又は疾病が原子爆弾の傷害作用に起因する旨の認定」を受けようとする被爆者は、被爆者は、被爆した事実を明らかにする事実説明書等、被爆時受傷から申請時に至る間の発傷病の推移等を明らかにする諸検査結果、診断結果資料のほか、申請当時公刊された学術研究書等、一般人が通常利用可能な医学、化学、物理学等の科学関係資料や医師らの鑑定的意見書等によって、申請者の罹患した負傷又は疾病は原爆の放射線を原因とするものとの可能性が原爆の放射線以外のものを原因とするものとの可能性より相対的に高いことを証明すれば足り、その場合には厚生大臣は原爆医療法八条一項の「認定」をしなければならないものと考えるのが正当である。そして、厚生大臣において、申請に対する処分を行う当時、特別に利用可能な資料等に基づいて申請者において相対的に放射線によるものとした申請にかかる負傷又は疾病が放射線によるものではなく、原因が他にあると確定判断できるときには、その旨及び内容を明示して原爆医療法八条一項の認定申請を却下することができるものと考えるべきである。
2 原告の被爆と肝機能障害及び白血球減少症の発症の機序との関連について
(一) 主として医学上の観点からする検討
原告は広島原爆の投下時に爆心から1.8km離れた広島市皆実町の船舶通信補充隊の通信講堂内において原爆に被爆し、身体に放射線の照射を受けた後、同日(昭和20年8月6日)放射線降下物である黒い灰を身体に被ったほか、呼吸時にこれを吸入し、通信講堂内において受けた顔面の傷害部位からも放射性物質を体内に取り込み、さらに同日から同月13日まで同町内の通信講堂付近、比治山付近、宇品の陸軍船舶練習部付近において救護作業に関与しつつ生活を続けた間に、残留放射線による照射を受けたほか、土砂、瓦礫等の埃、塵芥とともに放射性物質を吸入し、また食物、水等とともにこれらを摂取し、顔面の傷害部位からこれらを体内に取り入れた事実等からして、原告は、初期放射線の照射を受けたうえ、残留放射線による照射とともに放射性物質の相当量を体内に取り込み、体内において長期間にわたって放射線による照射を受けてきたものと認められる。
一般に肝機能障害の原因として放射線の被曝のほかに、アルコール、ウイルス、細菌、肥満、薬剤、腫瘍等が挙げられるが、原告についてはアルコールの多量摂取、白血球及び赤血球の増加剤以外の薬剤の使用、肥満、腫瘍などがあったとは認められず、本件処分までにウイルス等の感染があったとの資料もない。
また、昭和60年5月の診察検査の結果等からして、原告の白血球減少は白血球を構成する好中球の減少によるものと認められる。そして、一般に好中球の減少の原因として挙げられる放射線、脾腫を伴う疾患(脾機能亢進症及び肝硬変症等)以外の感染症(ウイルス感染症、腸チフス等)、骨髄抑制因子の作用(抗癌剤等)、血液疾患、全身性エリテマトーデス、悪液質、アナフィラキシー様ショック、遺伝性疾患に原告が罹患したことを窺わせるに足りる経過又は資料等はない。
脾腫と白血球減少症との因果関係については、肥大した脾では赤色髄の増大に伴い、血球捕捉、破壊能力が増し、その結果骨髄での造血は正常ないし亢進しているにもかかわらず、末梢血中では血球が減少するという経過を辿るものと理解されるが、原告には二度にわたる骨髄検査によって骨髄の低形成が見られる点などからして、原告の白血球減少症が慢性肝炎又は肝硬変を原発性疾患とする脾機能亢進症によるものとの見方は採用しえない。
以上の検討の結果、主として医学的な観点から考えると原告が昭和20年秋ごろから本件処分時に至るまでほぼ継続して自覚してきた脱力感、易疲労感、食欲不振等は白血球の減少によるもの、肝機能障害によるもの、その双方を原因とするものとの可能性が、その他の事由を原因とするとの可能性より相対的に高いと認められるし、昭和20年秋以降の脱毛、歯茎からの出血も被爆時の放射線の影響によるものと見るほかなく、これらの点等に加えて昭和40年から昭和60年までの白血球数、肝機能検査の結果等からして昭和60年11月当時には原告には白血球減少症と肝機能障害があってこれらが前記の各態様による広島原爆の放射線被爆(照射)により発症したものと見ることが相対的に最も可能性の高いものであると認められる。
(二) 物理学等上の知見と因果関係の存否の検討
一般に、物理学等において特定の原因と特定の結果の間における因果法則の存在を主張する命題を、有意の同一条件のもとでの実験により当該原因から当該結果が発生することを確認(検証)することができる分野が存在することは周知のことである。しかしながら、本件における証明命題のように、証明対象に多数の因果法則が関与しまた多数の現象が介在するものであったり、人為的に特定の原因を与えて結果の発生の有無を確認することが許されないような場合であったとすると、原因から結果に至る家庭を細分化して各部分に関する複数の法則を組み合わせたり、総合するなどして結果の予測をせざるをえないことがある。このような場合には、利用しようとする諸法則自体の正確性等のほかに、これらが当該命題の証明に適するものであるか、実験条件が有意に同一であるか、組み合わせ等の総合あるいは解釈が正当であるかなどの複雑かつ難解な問題が生じ、確定的な事実予測をすることが困難なことが多い。
本件においても、広島原爆の被爆により原告が肝機能障害、白血球減少症に罹患したかどうかが証明対象であって、これが人為的に有意の同一実験条件下での確認を許さないものであるばかりか、広島原爆が歴史上ただ一つ製造投下されたものであって、長崎原爆のようにその後も同一型の爆弾実験が行われてものではないことが一層問題を困難なものとしてきたのである。この点は広島原爆の出力の推定、エネルギースペクトルの確定(推定)等に反映し、それぞれに見解が分かれ、いまだ議論が続けられ、特に爆心地から1000m以遠での中性子線量に関しては本件においても賛否両説からの論説が提出された状況にある。
T65DにしてもDS86にしても、ネバダ実験場による実験結果を基礎にした出力計算、放射線の空中輸送計算、放射線測定等、個々的には有意の同一実験条件下での確認を経たものを含み、これらが全体として科学的な推定体系であることが否定されるものではない。しかし、本件における原告のような複合的な放射線被曝があった場合における被曝線量全体を推定するには適さない点(顔面傷口からの体内取入れ量、食事、呼吸時の摂取量は不明であろう。)もあり、これらの線量推定方式に基づいて被曝線量を原告の被曝線量として確定的な前提とすることは相当ではない。
また、被告らの挙げるしきい値論も放射線治療の現場等における人体照射における障害発生の線量をいうものであって、動物実験による報告では実験条件に対する評価も異なりうるほか、比較的短期間における照射とそれに対する反応を観察した結果の知見であるから、これまた原告におけるような四〇年以上に渡るそれも放射性物質の体内取り込みをも含む大量の被曝による人体に対する影響の有無を論ずる場合においては、その有効性に疑問を呈さざるを得ないであろう。
原告の生育歴、被爆時の状況、発病前後の健康状態、症状の推移、医学上の知見等とその検討に加えて、物理学等の知見とそれに関する被告らの主張する諸点を考慮しても、当裁判所の先の認定判断を維持するのが相当である。
3 原告の「要医療性」について
原告は現在においても、疲労感、倦怠感、食欲不振が続いており、日常にあっては午前中は横になって休養を取って過ごし、時間かけて家事を行い、裁判用務、通院のほかは外出することが少ない生活を送っている。また、依然として白血球減少症状が継続し、これが骨髄の低形成像が示唆する造血機能障害によるものと認められることが~、免疫機能の低下が懸念されるとともに、肝機能障害については現在通院先の病院においてはC型慢性肝炎と診断され、前記医学上の知見として確定したとおり、肝硬変への移行が予測されるが、その移行診断は臨床上も用意ではないことから、慎重な経過観察、各種検査が必要とされていることが認められる。また、当然に全身状態の維持にも厳重な観察を要するであろうし、急激な衰弱等が生じた場合には応急的な治療が迫られることも十分予想されるところであるから、原告は少なくとも四週間に一度程度の定期的な医師の診察のほかに、適時の応急的な治療などをも必要とすると認められるから、原告は原爆医療法七条一項に定める「医療を要する状態にある」と認めるのが相当である。
4 本件処分の違法性について
原告が本件処分当時に罹患していた肝機能障害及び白血球減少症状は、これらが放射線被曝以外の原因によるとの可能性より放射線被曝による可能性が最も高かったのであるから、被告厚生大臣としてはこれらの疾病が原爆医療法八条一項の「原子爆弾の傷害作用に起因する」との認定処分をするべきであったところT65Dの被曝線量推定体系及びいわゆるしきい値論にしたがい原告について「起因性」を否定する意見を提出した原爆被爆者医療審議会に同調して本件処分を行ったと認めるほかない。してみると、本件処分は、行政処分の基礎となる事実の認定を誤った重大明白な瑕疵があり、違法なものとして取消を免れない。
5 被告厚生大臣の故意又は過失について
(一) 本件処分当時の医療審議会において、被曝線量推定体系のT65Dによる線量評価基準にしたがって申請者の被曝線量を推定し、推定した線量を前提として申請にかかる疾患の原爆放射線「起因性」を判定するのが例であり、原則として委員が申請者の被爆に関する状況資料等に目を通すことも、申請者を診察することもなく、申請者の主治医から意見を聴取せず、申請案件に関する要点を記載した書面によって一件あたり数分間の検討をして結論を出すのが通常の扱いであり、審議の記録は係官がメモ程度のものを作成するに過ぎず、委員の確認を得るような議事録は作成されなかった。
(二) 被告らは、本件処分に関する医療審議会における審議内容についてはなんら主張立証をしなかったから、これを右に認定したと同様のものと推認するほかなく、審議時間からしても、本件申請について推定線量とししきい値によって原告の申請にかかる肝機能障害及び白血球減少症状について、被爆時の状況、その後の病歴、現症状を総合的に検討することなく、これらの疾病が原爆放射線による可能性が否定できるとの結論を出したと見るほかない。この審議の実態は、被告らが本訴で主張した審議のあり方に反するばかりか、厚生省公衆衛生局v法の「治療指針」「実施要領」にも反するものであり、その審議の結果は、従来の認定例との整合性を欠くものもあり、当裁判所の判断からしても支持しえないものであって、少なくとも過失により審議会として払うべき注意義務に反した違法のものとの誹りを逃れない。
(三) 被告厚生大臣としては医療審議会の審議実態が前項のような違法のものであることを知っていたか、少なくともこれを知るべき立場にあったのに、格別の是正措置をとることもなく、たやすく医療審議会の意見に同調して処分の前提となる事実の認定を誤り違法な本件処分をするに至ったから、同被告においても少なくとも過失があったというほかない。
6 原告の損害額について
原告は、被告厚生大臣の違法な行為がなければ、原爆被爆者特別措置法二条等に基づいて、本件処分申請の日の属する月の翌月である昭和60年6月から平成10年2月までに総額1875万3570円の特別手当又は医療特別手当を受給することができた筈であった。また、本件違法行為によって受けた精神的な損害に対する慰謝料額は30万円を下らない。
以上
「原子爆弾後障害症治療指針について」厚生省公衆衛生局長通知(昭和33年8月13日)
原子爆弾後障害症治療指針について
(昭和三三年八月一三日)
(衛発第七二六号)
(各都道府県知事・広島・長崎市市長あて厚生省公衆衛生局長通知)
標記については、かねて検討中であったが、今回原子爆弾被爆者医療審議会の意見を聞き、これを別紙のとおり定めたので了知されるとともに、指定医療機関に対する周知方についてよろしく御配意願いたい。
なお、この指針は、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律第一一条第二項の規定に基くものではなく、この指針による治療は、あくまで同条第一項の健康保険の診療方針中に含まれるものであって、特に留意すべき事項を定めるものであるので、念のため申し添える。
おって、昭和三二年五月一四日衛発第三八五号「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律による診療方針等について」(各都道府県知事、広島・長崎市長あて、公衆衛生局長通知)は、廃止する。
別紙
原子爆弾後障害症治療指針
この指針は、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律に基き医療の給付を受けようとする者に対し適正な医療が行われるよう、原子爆弾の傷害作用に起因する負傷又は疾病(以下「原子爆弾後障害症」という。)の特徴及び患者の治療に当り考慮されるべき事項を定めたものである。
一 総説
原子爆弾後障害症を医学的にみると、原子爆弾投下時にこうむった熱線又は爆風等による外傷の治癒異常と投下時における直接照射の放射能及び核爆発の結果生じた放射性物質に由来する放射能による影響との二者に大別することができる。
すなわち、前者は原子爆弾熱傷の瘢痕異常で代表されるものであって、一般熱傷の場合とはその治癒経過その他に相異が認められ、また、爆風による直接的又は間接的外傷にしてもその治癒の様相に一般の外傷と多少の相異の認められるものが少なくない。
後者は造血機能障害、内分泌機能障害、白内障等によって代表されるもので、被爆後一〇年以上を経た今日でもいまだに発病者をみている状態である。これらの後障害に関しては、従来幾多の臨床的及び病理学的その他の研究が重ねられた結果、その成因についても次第に明瞭となり、治療面でも改善が加えられつつあるが、今日いまだ決して十分とはいい難い。従って原子爆弾後障害症の範囲及びその適正な医療については、今後の研究を待つべきものが少くないと考えられる。
(1) 原子爆弾被爆者に関しては、いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え、その経過及び予防について特別の考慮がはらわれなければならず、原子爆弾後障害症が直接間接に核爆発による放射能に関連するものである以上、被爆者の受けた放射能特にγ線及び中性子の量によってその影響の異なることは当然想像されるが、被爆者のうけた放射能線量を正確に算出することはもとより困難である。この点については被爆者個々の発症素因を考慮する必要もあり、また当初の被爆状況等を推測して状況を判断しなければならないが、治療を行うに当っては、特に次の諸点について考慮する必要がある。
イ 被爆距離
この場合、被爆地が爆心地からおおむね二キロメートル以内のときは高度の、二キロメートルから四キロメートルまでのときは中等度の、四キロメートルをこえるときは軽度の放射能を受けたと考えて処置してさしつかえない。
ロ 被爆後における急性症状の有無及びその状況、被爆後における脱毛、発熱、粘膜出血、その他の症状をは握することにより、その当時どの程度放射能の影響を受けていたか判断することのできる場合がある。
(2) 原子爆弾後障害症として比較的明瞭なものは、瘢痕治癒異常、造血機能障害、内分泌機能障害、白内障等であるが、この外、肝機能障害、各種腫瘍等種々の続発症の生ずる可能性も考慮しなければならない。
(3) 原子爆弾後障害症においては、その症状が一進一退することが多いので、治療を加えた結果一応軽快をみても、その後における健康状態には絶えず注意を払う必要がある。
(4) 原子爆弾被爆者の中には、自身の健康に関し絶えず不安を抱き神経症状を現わすものも少くないので、心理的面をも加味して治療を行う必要がある場合もある。
(5) 原子爆弾後障害症については、全身的な補強が、肉体的にはもちろん精神的にも好影響をもたらす場合が少くない。
特に全身衰弱の認められるものには、量的及び質的に十分な栄養の補給、強壮剤の投与を行うとともに、各種のストレスに対する予備能力の低下傾向に注意する必要がある。
二 各論
原子爆弾後障害症のうちで最も変化が著しく、発現率の高いのは、造血機能障害である。
これには、放射能の照射によってひき起こされた障害が遅れて現われる後発症状と傷害の後遺症ともいうべき症状との二種類がある。すなわち、後年における白血病の発生等は前者に属し、また、常に幾分の貧血や白血球減少が認められ、必要な場合に白血球の調節が十分でないというような例は障害を受けた機能の回復が不十分なものであって後者に属する。ただし、実際にはこの両者を厳密に分けることの困難な場合が多く、また一見順調に機能が維持されているかにみえるものでも、将来突然変調をきたす場合もあるので注意する必要がある。原子爆弾後障害症としての造血機能障害が一般の造血機能障害とその発生機序がどのように異なるかについては、必ずしも明瞭でなく、従ってその治療に際しては一応既知の造血機能障害に準じて取り扱うこととなる。
また、造血機能障害が放射能によるものか否かの鑑別診断がかなり困難な場合が多いので、被爆者について他の原因が認められない場合には、一応被爆の影響を除外し得ないものとして治療を行う必要がある。
(1) 貧血の治療
イ 造血剤によって回復を期待し得る貧血
これらは一般に鉄不足の状態にあり、また骨髄中にも細胞の増殖を認められるものが少なくないが、鉄剤の使用により回復させ得る場合が多い。ただし、出血、寄生虫症等他の原因を十分考慮して除外する必要がある。
(ロ) 大血球性高色素性貧血の一部
これはやはり骨髄中に細胞の増殖がみられる場合であって、一般には肝製剤、ビタミンB12、葉酸等が有効である。
ロ 造血剤のみの使用によっては回復の不可能な貧血
正常血球性(正常色素性)貧血、大血球性(高色素性)貧血の一部等は一般に骨髄が再生不良性の状態を示すが、なかにはむしろ細胞数の多くみられるものもあり、この所見は細胞の成熟障害あるいは部位的な細胞増殖と考えられるもので、これに対しては各種造血剤の使用、輸血、摘脾等の治療が有効な場合がある。
しかし、この種の貧血で高度の場合には、再生不良性貧血に準じて取扱うことが必要である。
また輸血は原則的に造血剤の使用後その経過をみて行うが、貧血が高度の場合には必要に応じて行う。
(2) 多血の治療
軽度の赤血球増多には、特殊の治療を要しないが、高度のものは一般の多血症に準じて治療を行う。
(3) 白血球減少(顆粒球減少)の治療
一般に骨髄に著変を認めない軽度の白血球減少は他に特別の所見のない限り、対症療法を用いるに止める。
また、白血球減少の高度のもの又は他の病状を伴うものにあっては、一般の白血球減少症に準じて治療を行う。
(4) 白血球増多の治療
放射能以外の原因を十分考慮したうえ、白血球増多の高度なものについては白血病への移行を検討する必要がある。
(5) 再生不良性貧血の治療
再生不良性貧血には次の治療を行う。
イ 多種造血剤の使用
ロ 輸血
ハ 必要に応じて摘脾
ニ 非特異性蛋白剤、ホルモン剤、ビタミン剤の使用
ホ 抗生物質の投与
ヘ その他必要に応じた治療
(6) 顆粒球減少症の治療
顆粒球減少症には次の治療を行う。
イ 各種白血球増多性製剤(核酸物質を含む)及び造血臓器製剤の使用
ロ 輸血
ハ 摘脾(脾の抑制作用が考えられる場合)
ニ 非特異性蛋白剤、ホルモン剤、ビタミン剤の使用
ホ 抗生物質の投与
(7) 出血性素質の治療
出血性素質には次の治療を行う。
イ 各種造血剤の投与
ロ ビタミンD、K、C剤、カルシウム剤の使用
ハ 輸血
ニ 摘脾
ホ ACTH、コーチゾン等のホルモン剤の使用
ヘ その他必要に応じた治療
(8) 白血病の治療
白血病には次の治療を行う。
イ 輸血
ロ 各種白血球減少性製剤(抗白血病製剤)の投与
ハ 放射性燐の使用
ニ ACTH、コーチゾン等ホルモン剤の使用
ホ 抗生物質の投与
ヘ その他必要に応じた治療
(9) 造血機能障害の治療に関する注意
イ 貧血、白血球減少症、血小板減少症はしばしば併存していわゆる汎骨髄瘻の形をとる。従ってその治療も全般的に行う必要のある場合が多い。
ロ 造血機能障害の場合にも一般栄養状態及び合併症に対する治療を必要とする。
2 内分泌腺機能障害の治療
原子爆弾後障害症としてみられる内分泌腺機能障害は主として副腎皮質機能障害、性腺機能障害、甲状腺機能障害であるが、これらは特に放射能に基くか否かの判断が困難な場合が多いので、可能な限り他の原因を排除し、原因の明瞭でないものは被爆による影響の可能性を考慮して治療を行わざるを得ない。
その治療法は一般の副腎皮質機能低下及び性腺機能障害の治療に準ずる。ただし、内分泌機能障害が造血機能障害等と共存する場合が多いので、この場合は両者の治療を同時に行う必要がある。
3 肝機能障害の治療
放射能が肝機能に及ぼす影響についてはいまだ明瞭でない点が多いが、原子爆弾後障害症として肝機能障害を生ずることがあると一般に考えられている。
この場合には一般の肝機能障害に準じて治療を行う。
4 熱傷瘢痕異常の治療
原子爆弾熱傷部の瘢痕は、種々の異常状態を呈して今日に至っているが、それに対する治療方針の検討に際しては、まず、原子爆弾熱傷の特殊性を考慮し、次いで、それら瘢痕の性状、経過及び現状を観察して対策を講ずべきである。しかし、事件発生後一〇年余の経過した今日、それらの瘢痕異常は、すでに固定期に入るものと考えられるので、今後に於ける実地上の治療方針については、大体において、他の原因で発生した熱傷瘢痕の異常と同様の線に沿って検討してもさしつかえない。
原子爆弾熱傷の瘢痕異常で、今日において治療を必要とするものは、瘢痕肥厚、均縮等に基く醜形ないし機能障害であり、治療術式としては、瘢痕の除去、植皮による形成等を主体とする外科的方法であるべきであろうが、原子爆弾熱傷の特殊性に基いて、それ等の異常な治療が極めて困難であり、種々努力を重ねても十分に満足すべき成績を挙げにくいことがある。従って、これらの瘢痕異常の治療にあたっては、適応の選択を厳正にしなければならない。特に、美容のみを目的とする治療に際しては、一層慎重に適応の選択に当ることが必要である。
原子爆弾熱傷の瘢痕異常に対する外科的形成治療法の実施に際して、一般的に注意を要することは、次の諸点である。
(1) 肥厚ないしケロイド化瘢痕の除去は完全に行うことを原則とすべきである。特に機能障害の治療にあたっては、部分的な切除だけでは、永続的効果をもたらし得ないことが多い。
(2) 皮膚の移植は自家皮膚移植法が原則とし、十分に余裕をもった移植片を用うべきである。遊離切断皮膚片の外、必要に応じては、有茎性、特に管状有茎移植法或いは埋没移植法等の応用されることが望ましい。植皮術における移植皮膚片、特にその厚さの選択については、被覆すべき欠損部の大きさ、深さ、移植床の状況等に従って、慎重に考慮しなければならない。例えば同じくシュールシュ氏法による皮膚片であっても、少し大形のものを用いる場合には、やや厚めのもの(デルマトームがあれば適宜に加減が出来る)を用いると、種々の点で都合がよい。
(3) 高度畸形の外科的矯正術に際しては、深部組織としての腱筋膜、筋肉、骨等の変状は勿論のこと、特に血管及び神経の収縮固定状態に注意し、慎重周到な対策をもって臨まなければならない。そうでないと、機能の改善が得られないばかりでなく、その部の循環障害ないし壊疽を来たして、かえって目的に反することがある。
(4) 美容的治療法としての意味が多い施術に際しては、一般に漸進的方策のとられることが望ましい。そして皮下の瘢痕組織等を形成部下敷用として利用すること等の注意が必要である。特に発育期にある小児においては、これらの注意が必要である。
(5) 今日においても、形成治療の後に、まれには、皮膚縫合部瘢痕が軽度ながら肥厚ないしケロイド化の傾向を示すことがあるが、これを、原子爆弾障害の影響によるケロイド素質が残っているものと考える前に、形成治療法の手技に欠けるところがないかを反省してみることが必要である。
従って美容を主目的とする治療に際しては、残存皮膚縁部の取扱いは特に庇護的にし、縫合針並びに縫合絲等もなるべく細小のものを用いるべきである。
なお身体のいずれの部分を問わず、熱傷瘢痕の部に難治の潰瘍を残し、あるいは時々潰瘍形成を繰り返す場合には、必ず、適宜植皮法によって被覆治癒させなければならない。潰瘍形成に至らないまでも、瘢痕部に時々皹裂を発生するような場合も、前項に準じて処理すべきである。これらの注意は、いうまでもなく、皮膚癌発生の危険を未然に防止しようとするためのものである。
5 眼障害の治療
眼科領域における原子爆弾後障害のうち、治療を要するものは、主として直接の眼外傷による後遺症と放射能性白内障とであるが、その他、眼機能の異常等も、稀には、存在することがある。以上の場合の治療法は、次に掲げるもの以外は、一般の治療法に準じて、適宜行うものとする。
(1) 眼外傷による後遺症の治療
原子爆弾による眼外傷は、主として熱線による火傷と爆風のため飛来した異物による損傷であるが、これらは何れも前述の熱傷瘢痕異常の治療を参考の上、一般眼外傷の後遺症に準じて治療を行う。
(2) 放射性白内障の治療
原子爆弾による白内障は、被爆時瞬間的に放射されたγ線及び中性子によって生じた放射能性白内障であって従来知られているX線又はラジウムによる放射能性白内障に類似している。
放射能性白内障に水晶体の溷濁が進めば他の原因による白内障と区別することが困難であるが、原子爆弾後障害症としての放射能性白内障は、おおむね、爆心地から比較的近距離で被爆した者に現われるので、特に他の原因の明らかなものを除き、近距離で被爆したものの白内障は、放射能性白内障として処理せざるを得ないことが多い。
原子爆弾後障害症としての白内障の治療はおおむね一般の白内障の治療に準じて行う。
2017年5月2日火曜日
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