社団法人 日本被団協原爆被爆者中央相談所
理事 伊藤 直子
自己紹介
私は1970年から日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)で働き、1978年に社団法人 日本被団協原爆被爆者中央相談所(被爆者中央相談所)の設立後は、全国的な被爆者の相談事業に携わってまいりました。
中央相談所では、「被爆者相談110番」事業に寄せられた10万件を越える電話、手紙、来訪などでの相談に対応してきました。また、毎年全国8ヶ所で開催された相談事業講習会では、医師や関係者と被爆者施策の活用などについて啓蒙・普及をはかってきました。
その結果全国的に被爆者対策の活用がすすみ、相談に対応できる被爆者相談員が養成されています。
原爆症認定と被爆者の思い
40年にわたる被爆者相談活動の中で、つらかったことのひとつは、原爆症の認定を求める被爆者の相談に十分に応えられないことでした。
原爆症認定を求める被爆者には、時代の流れの中で変化はありましたが、「国に、被爆してからの苦しみは原爆のせいだ、と認めてほしい」という一貫した思いがあります。
身体が悪くて思うように働けない、怠け者と思われてつらいなどの原因が、自分の責任ではなく、遡れば被爆したことにあることを国に認めてほしいということです。
被爆者健康手帳や各種の手当は、都道府県知事が交付または支給の認定をしています。被爆者対策で、唯一国(厚生労働大臣)が認定する原爆症認定制度に被爆者は強い思いを寄せることになるのです。
しかし、入市や直爆でも2㌔をこえた被爆者の申請は却下され続けました。
被爆者や関係者の中に、原爆症の認定は厳しくて、申請しても無駄とのあきらめがあったことも確かです。
私も認定を希望する被爆者に「原爆症の認定申請は誰でもできますが、この被爆距離では多分却下されますよ」とこたえていました。
私自身がまるで認定申請を自己規制するための先導役をしていたのではないか、という反省があります。
認定申請の却下処分に対して異議申立てを援助し、これも棄却され、裁判を提訴するかを検討したとき、「裁判をしたい気持はあるが、プライバシーが明らかになるから困る」、「国を相手に裁判なんてできない」などとあきらめざるをえなかった多くの例があります。
その中の一人に、4歳の時に広島で被爆し、足のケロイドに皮膚がんが発症したために、認定申請をした女性がいます。
皮膚がんのほかに体がだるい、疲れやすいなど主婦として十分な事ができないと苦しんでいました。そんなこともあったのか夫は家に帰らなくなり、皮膚がんの手術で入院している時に離婚届けが出されていました。子供2人は彼女が引き取りました。
2.4㌔で被爆した彼女には、「皮膚がんになったのは自分の責任ではない、絶対原爆によるもの」という確信があります。せめてそれを国に認めて欲しいと願ったのですが、被爆距離の壁の前にあきらめざるを得ませんでした。
これは一つの例に過ぎませんが、こうして被爆者は原爆症認定申請を自己規制することになっていったのだと思います。
「認定制度」の経過
原爆症認定制度は、1957年の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」制定によって、原爆症と認定された疾病に対し、国の負担で医療を給付する制度としてスタートしました。
この当時は、がんのほか、現在では全く認定されない熱傷瘢痕いわゆるケロイドやガラス片などの体内異物混入による「負傷」や、慢性肝機能障害が多く認定されていました。
1960年に「一般被爆者」、「特別被爆者」という制度が設けられ、「特別被爆者」に一般疾病医療費が支給されることになり、健康保険による自己負担が被爆者健康手帳によって負担されることになりました。同時に入・通院をする認定被爆者に医療手当が支給されることになります。
1968年に「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(原爆特別措置法)」が制定され、認定被爆者に月額1万円の特別手当が支給され、疾病や所得などの制限はありましたが、そのほかの被爆者に3千円の健康管理手当が支給されることになりました。
当時生計の中心でありながら、病気がちで働けないといった被爆者にとって特別手当、医療手当は大きな救いであり、原爆症認定申請者が増加しました。
1965年、66年、67年と100人未満であった申請者が、1968年には399人となっています。
1974年に一般被爆者、特別被爆者の区分が廃止され、被爆者健康手帳所持者全員に一般疾病医療費が支給されることになりました。そして、原爆症認定制度が「医療給付」という目的から経済的救済の側面を強くしていくことになります。
1981年に所得制限のない医療特別手当が創設された時、日本被団協との交渉で、「せめて高卒初任給程度に」との要求に、当時の厚生省の局長は「努力したい」と答弁しました。
医療給付から始まった原爆症認定制度は、認定被爆者の経済的な救済へと性格を変えていきました。
お配りしています表を見ていただきたいのですが、認定申請が増えても年度末の認定被爆者数はほとんど変化がありませんでした。また、被爆者健康手帳所持者の中での原爆症認定被爆者は1パーセント未満でした。
被爆者は、この数字を見て厚生労働省は、「最新の科学的知見に基づいて放射線起因性を判断していると言うが、実際の認定は予算の範囲内で行われているのではないか」と原爆症の認定審査に疑問を持ち始めます。そうでなければこんなにそろった数字が出るわけがありません。
2000年7月に長崎の松谷訴訟の最高裁判決が確定しました。
松谷英子さんの認定疾病は「右半身不全片麻痺及び頭部外傷」です。
多くの被爆者が、今後原爆症認定は松谷さんの被爆距離である2.45㌔までは拡大されるだろうと期待しました。
2001年5月に原爆症認定基準としては始めて「原爆症認定に関する審査の方針」が公表されました。それまでは「認定基準は委員の頭の中にある」といわれていました。しかし、公表された「審査の方針」は、松谷さんさえも認定されない厳しいものでした。
そこで、「原爆症認定申請を自己規制することはやめよう」、「自分の病気は原爆のせいと思う人は原爆症認定申請をしよう」として取り組まれたのが2003年から始まった原爆症認定集団訴訟でした。
集団訴訟の結果明らかになったことの一つが、原爆被害についてまだまだ未解明なことが多い、ということです。放射線影響研究所の大久保利晃理事長が、中国新聞のインタビューに「原爆放射線による晩発影響で、わかっているのは5パーセント程度かもしれない」と答えていることとも一致します。
積み木細工のような被爆者対策
原爆被爆後12年後に始まった国の被爆者援護ですが、今年で54年になります。
原爆医療法、原爆特別措置法の制定、それを一本化した現行の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の制定までの経過を見ると、被爆者の長年にわたる要求によって改正を重ねたことは明らかです。被爆者は原爆被害に対する国家補償の被爆者援護法を求めて日本被団協結成以来粘りつよく運動を続けてきました。法律の制定・改正の経過をみると被爆者の国家補償要求から逃れるためのものだったといえます。
その結果、現行の被爆者対策は、積み木細工のような継ぎ接ぎだらけの施策になっており、多くの矛盾と問題を含むことになっています。
今回の原爆症認定制度のあり方を検討するに当たっては、さらにその矛盾と問題を広げるべきではありません。
その矛盾の一つが、原爆症の認定疾病と健康管理手当の対象疾病の多くが重なっていることです。同じ悪性腫瘍であっても3.6㌔では原爆症と認定されず健康管理手当となり、3.5㌔以内であれば原爆症と認定され医療特別手当が支給されることになります。
認定と不認定を分けるのは、放射線起因性と要医療性とされていますが、それを被爆距離、入市日だけで判断するのはあまりにも機械的で、被爆者は納得できないのです。
未解明なことの多い原爆被害だからこそ、その実態を総合的に判断すべきです。
また、現在原爆症認定疾病が治癒した場合、医療特別手当から特別手当に切り替えることになっていますが、これはあくまでも一度原爆症と認定を受けた場合に限られます。
現在の「新しい審査の方針」によると、3.5㌔以内で被爆した場合、現に要医療性のある悪性腫瘍であれば認定されて医療特別手当が支給されます。そして、将来治癒した場合は特別手当に切り替えられます。
しかし、旧「審査の方針」時代には、例え2㌔の悪性腫瘍でも認定されませんでした。多くの被爆者が、却下されたままあきらめてしまいました。そして現在疾病がすでに治癒していれば認定申請をしても原爆症とは認定されず、特別手当は支給されません。
不公平だとの声が上がっています。
さらに、原爆症認定に当たって、国は一貫して放射性降下物からの残留放射線による人体への影響を考慮していません。原爆症認定集団訴訟では残留放射線による被害を含めて原爆被害を総合的に判断するべきであるとして、原告の27連勝につながっているのです。
長年の被爆者の相談の経験から、私個人の意見ですが、
あるべき「認定」制度について申し上げたいと思います。
被爆から65年が経過して、原爆症認定に当たっては、原爆被害がいまだ未解明なことに加え、時間の経過による放射線起因性を立証する困難さがあります。
平均年齢が76歳を越えて高齢化した被爆者の公平な援護を図るという立場から、被爆者の疾病には何らかの形で放射線が関与していると見るべきです。そこで、
① 医療特別手当、特別手当、保健手当は廃止する。
② 健康管理手当の疾病制限を廃止してすべての被爆者に支給する。
(手当名は、健康管理手当にこだわらない)
③ 政令で「認定疾病・障害」を定め、全員に支給される手当に重篤度に応じた加算を行う。
(加算される手当の上限は現行の医療特別手当額とする)
という制度に改正するのが、実態に即し、公平な援護制度になると思います。
ぜひご検討ください。
むろん原爆症認定制度の在り方を検討するに当たっては、現行法10条、11条に関わっての法改正も検討されるべきであることは当然のことと思います。
最後に「私は原爆症だ」と訴える被爆者を紹介します。
愛媛県松山市に住む廣田閲子さんは、3歳7ヶ月のとき、広島の爆心地から600メートルの鷹匠町で被爆しました。背中、腹部、両手両足にヤケドを負いました。まさに奇跡的に助かったと言っても過言ではありません。
被爆後は身体中から膿みが出て、そこにうじ虫が入り込み、高熱と下痢、下血がつづき、食べ物もほとんどとれませんでした。髪の毛がパラパラと抜け落ちて丸坊主になりました。
1945年暮れに松山に戻って寝込んでいる廣田さんを見た親戚縁者全員が、「この子はもたない」と思ったそうです。後年には「あんたが生き延びると思ったものは誰もいなかった」といわれたようです。
小学校に入学する頃には赤い毛がポチポチはえてきましたが、机に向かってしっかり坐ることができないほどつらさをおぼえ、何時も机にうつぶせて授業を受けていたといいます。
9歳の時にリウマチ、17歳の時狭心症と肝臓病との診断を受けました。
49歳で網膜剥離、59歳で甲状腺に水泡があるといわれます。この間にもさまざまな症状で入院回数は数え切れないといいます。
廣田さんは今も、全身多発性関節リウマチ、甲状腺腫、副甲状腺水泡、狭心症、慢性胃炎、逆流性食道炎、うつ病、肝障害などの治療のため6ヶ所の医療機関に通院しています。
廣田さんは2007年11月に副甲状腺機能亢進症と甲状腺腫瘍で原爆症認定申請を行いました。しかし2010年2月に却下処分を受けます。
副甲状腺機能亢進症は申請されたデーターでは、疾病の有無を判断できない、甲状腺腫瘍については放射射線起因性がないというのが却下理由です。
彼女は普通の人がいう健康ということを知らない人生だったといいます。今彼女を苦しめているのは主にリウマチです。しかし認定の対象疾病ではありません。
廣田さんは被爆してからさまざまな病気と戦いながら懸命に生きてきました。
「私は誰も恨まないように生きてきました。しかしどうして私が原爆症と認定されないのですか。国を恨みたくなります」と廣田さんは言います。
廣田さんのような人が救済される制度が求められているのです。